わたしが講師になった理由【前編】ド田舎の高校生が東大に挑戦

自己紹介

こんにちは、英語講師Nです。

 

わたしは大学卒業後は一瞬だけ大企業に就職し、その後海外を放浪しておりました。その後ふと思い立ち、26歳で英語の講師になりました。

 

なぜN村は英語講師になったのか? みなさんのそんな疑問にお答えしたいと思います(←なぜか上から目線)

 

 

どうして英語講師を目指そうと思ったの?

 

生い立ち

さて、そもそもですが、わたしは日本のド田舎で生まれ育ちました。アラレちゃんのペンギン村みたいなところです。

 

コンビニまで徒歩30分、電車は1時間に一本しかない。道を歩けば犬のう〇こを踏みつけてしまう。そんな場所です。

 

地元の公立校へ進学し、部活もそこそこにやりながら、結構楽しい高校生活を送りました。だから、勉強のことなどすっかり忘れていました。

 

高三の夏に部活を引退し、気づいたときには時すでに遅し。学年では下から十番以内。わたしの成績は、グロテスクな深海魚のように底辺近くを這いずり回っていました。

 

 

下から十番?相当やばいね。

 

 

しかし、わたしが目指したのは慶応大学法学部。そして、その時のわたしの偏差値はせいぜい40~50無謀な選択です。そして、そのことは教師にも指摘されました。

 

 

慶応?ムリだ、やめた方がいい。

GMARCHでもいいだろう。

先生の言うことを聞きなさい。

 

 

毎日のようにこんな言葉を吐きかけられたわたしは、逆に反発します。そりゃそうですよ。「俺の言うことを聞け」と言われて聞くわきゃないんです。反抗するに決まってます。

 

一方のわたしは成績を見て、「確かにヤバいぞ」ということは自覚していました。慶応の偏差値は70前後、わたしの偏差値は40後半。相当ヤバいです。ヤバい。ヤバい、ヤバい。

 

 

そりゃあね、死ぬ気で勉強しましたよ。ガツガツ、ガリガリ。

 

 

そしてどうなったか?

 

 

結果は不合格でした。

 

受験失敗~そして浪人へ~

よっしゃあ、と意気込み受験した慶応大学。

 

しかし結果は、ものの見事に不合格。

 

戦略が大きく間違っていたとは今でも考えていませんが、単純に力量不足でした。わたしは滑り止めも受けていなかったので、その瞬間浪人が確定しました。

 

浪人以上に悔しかったのが、教師の「それみたことか」という反応です。本当に悔しかった。なさけなかった。ふがいなかった。わたしは彼らとの勝負にも負けたのです。

 

 

先生の言うことを聞かないから落ちたんだ!

へっへっへ。

 

 

同じ高校のアホな仲間たち素晴らしい仲間たちも、続々と浪人が決まっていきます。進学先は駿台予備校。その駿台予備校から入塾案内が届いたのですが、そこに、思いもよらない記載がありました。

 

 

東大コースも選べますよ

 

 

…マジ?

 

 

たぶん、模試の成績を見て、自動的に記載内容を振り分けていたのでしょう。受験直前期は、英国だけなら偏差値60を超えていましたから、そこだけで振り分けられたのでしょう。実際東大を受けるとすれば、地歴やら数ⅡBやら、科目数が倍以上に増えるので、英国だけの成績を見て判断するのは、ハッキリ言ってナンセンスです。アホの極みです。

 

 

しかし、あの時わたしはアホでした。

 

 

この俺が東大…よし、やってみよう!

 

 

勢いです、完全に。このまま引き下がるわけにはいかなかった。浪人して慶応に受かれば、それはそれで立派なことですが、高校の教師を見返すには物足りません。「よくやったね」で終わってしまいます。

 

しかし、東大ならどうでしょう? 東大合格者は、我が母校からは一人も出ていないはずです。伝説のポケモンクラスのレア度です。ホウオウというかセレビィ、あるいは色違いのミュウ。そういうレベルです。

 

これはインパクトがある。東大の合格証書を叩きつけることができれば、相手はぐうの音も出ないはずです。これだ、これだ。見つけたぞ!

 

3月も上旬、春の足音が聞こえ始める頃、わたしは新たな希望に燃えました。

 

 

後編へ続く~(キートン山田風に)

コメント

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